本校創立より大正時代末期まで2 『郡立河南高等女学校沿革略」によれぱ、「裁縫学校設立セラルルヤ入学志願者割合ニ多ク、ソノ結果ハ郡内ノー部二於テ女学校郡営ノ声ヤヤ高キモノアリ。依テ郡八明治39年9月25日、市立堺高等女学校(現大阪府立泉陽高等学校)外五校ニ視察員ヲ派遣」し、郡市立高等女学校経営の実情を調査している。諸準備の上、明治39年10月16日の臨時郡会に「高等女学校郡営の件」を上程したが「本郡ガ地勢上、生徒通学ノ利害甚ダシクー致セザル所アルガ為ニ、今暫ク交通機関ノ整備ヲ待ツ必要アリトノ理由」(同沿革略より)によって再び無期延期となってしまった。高等女学校への移行を期待していた当時の在校生たちの失望は相当なものだったようで、その後、関係者の躍起の勧誘にも拘らず、入学志願者は激減し,一時は廃校同然の状態にたち至った。
 このようにして、試練の年、明治41年も暮れ明けて明治42年3月、裁縫学校の第1回卒業生22名を世に送り出した。同年4月、本校を視察した督学官・生駒再治氏の助言もあって女子技芸学校への組織変更の意向をかため)同年12月20日、富田林町外六カ村学校組合会において、女子技芸学校設立の件が可決された。諸手続の末、いよいよ明治43年6月27日、文部省告示第192号をもって認可され、同年7月25日「大阪富田林町外六カ村学校組合立女子技芸学校」という長い名称で開校されたのである。
 校長は南河内郡長・向日保雄氏の兼任となり生徒数150名に達した。校舎は現在の富田林駅近くで旧富囲林警察署前。ちなみに、「富田林外六カ村」とは富田林町、新堂・川西・東条・彼方・喜志・錦郡の各村を指す。
 ところが翌44年4月に高等女学校令が改正されたのに加えて技芸学校も入学者が増加し総数が200名を超える状況となるに及んで郡設の「実科高等女学校」への組織変更を望む声が高まってきた。
 いよいよ時節到来である。過去の教訓を生かし今度こそはと周到な議会対策がとられている。まず、郡会試員、町村長、郡書記、技芸学校関係者より成る総勢10名の「女学校設立調査委員会」を設け、十数回の会合を重ねて女学校経営の立案をし、その原案にもとづいて郡会議員と各町村長の「連合協議会」を開催して検討の結果、各農区(当時は4農区に分れていた)より設立委員4名ずつを選定した。明治45年1月のことである。翌月2月5日、郡役所で遵合委員会を開き「郡立実科高等女学校設立に関する覚書」を議走している。明治45年2月13日の郡会において「南河内郡立実科高等女学校設置の件」をついに可決した。三度目の正直である。

 諸手続を完了し、同年3月29日、文部大臣より本校設立の件を認可ぜられ、「女子技芸学校」は本科第l回(27名)、専修科第2回(9名)の卒業証書を投与したのみで廃校となった。ただし、校地・校舎は当分そのまま元女子技芸学校のものを転用することとした。

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目次

表紙

校歌

河南高校全景

学校方針・校旗・校章

沿革の概要

前身校の開校式に向けて

前身校開校の頃の学生生活

新校舎への移転

郡立女学校への改組

高等女学校の授業

校名三選の軌跡

河南高校「松原分校」のこと

80年の歩み<昭和初期から現代まで>
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