90years |
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河南高等学校90年史 年表(その3)
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西暦 |
年号 |
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本校の教育に関すること、国内外のおもなできごと |
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1950 |
昭和25 |
6月 |
朝鮮戦争始まる |
1951 |
昭和26 |
4月 |
定時制松原分校を設置する |
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6月 |
新制中学校に貸与していた校舎・校地が本校に返還され、現在の校地に全校復帰する |
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7月 |
篠原文郎にかわり、浅田宏が校長となる |
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12月 |
工業科実習工場竣工 |
1952 |
昭和27 |
4月 |
本校、学校6日制にもどる。サマータイムが廃止される。サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は主権を回復する |
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11月 |
村社講平、本校の陸上競技指導のため来校する |
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12月 |
食堂(現存せず)、体育館(木造、跡地が現保健室の南側多目的コート)ができる |
1955 |
昭和30 |
9月 |
同窓会館兼図書館できる(たちばな会館として現存) |
1956 |
昭和31 |
4月 |
浅田宏にかわり、浅田光男が校長となる |
1959 |
昭和34 |
1月 |
メートル法が施行される |
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7月 |
プール(25mX7コース)竣工 |
1960 |
昭和35 |
3月 |
工業科第二実習工場(原動機試験室・精密測定室)竣工 |
1961 |
昭和36 |
9月 |
第=室戸台風により柔道場・卓球場(共に旧高等女学校の木造体育館を改造)と体育館(1952年竣工)が全壊、他の校舎も大きな被害を受ける |
1962 |
昭和37 |
4月 |
浅田光男にかわり、伊玲本−が校長となる |
1963 |
昭和38 |
1月 |
体育舘新築工事が竣工(位置は全壊前と同じ) |
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2月 |
現在の別館棟3階建6教室や吉楽教室、柔道場(現存せず)ができる |
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3月 |
工業課程の生徒募集を停止する |
1965 |
昭和40 |
2月 |
アメリカ軍、ベトナム戦争へ本格的に介入、北爆を始める |
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3月 |
記録的大雪のため府立高校の入学試験の開始が午後からとなる。現在の本館棟第1期工事竣工、職員室応接室・8教室ができる。工業課程を廃止する |
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4月 |
全学年各11学級、学校全体で33学級・生徒総数1,647名となる |
1966 |
昭和41 |
3月 |
本館棟第2期工事竣工、事務室・正面玄関などできる |
1967 |
昭和42 |
3月 |
府立高校の入学試験の教科が9教科から5教科となる。 |
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本館棟第3期工事竣工、保健室・カウンセラー室(共に現在の本館1階乗端の2教室)、会議室(現在の本館2階乗端の2教室)、8教室ができる |
1968 |
昭和43 |
3月 |
現在の生徒下足室、図書室、視聴覚教室ができる |
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4月 |
府立高校での宿日直廃止、全校に警備員を配置する |
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9月 |
大阪府教育委員会、「高校生の政治的活動について」の通達を出す |
1969 |
昭和44 |
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この年は前年の大学紛争が高校に波及、大阪の高校でも学園紛争が続発した |
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3月 |
現在の理科棟ができる |
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4月 |
伊藤本一にかわり、竹林政英が校長となる |
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9月 |
本校でも学園紛争の様相が顕著となる |
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10月 |
第1回文化講座を校内で開く |
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11月 |
「反戦連合」を名のる本校生10名と応援の他校生20名、図書室を封鎖するが2日目に自主解除する |
1970 |
昭和45 |
2月 |
急進派の一部生徒、卒業式を妨害する |
1971 |
昭和46 |
3月 |
現在の特別教室棟(家庭科棟)と食堂ができる |
1972 |
昭和47 |
4月 |
竹林政英にかわり、川原崎茂が校長となる。各学年10学級、全校で30学級・生徒総数1,376名となる |
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5月 |
沖縄が日本に返還され、沖縄県が発足する |
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11月 |
創立60周年記念誌を刊行する |
1973 |
昭和48 |
5月 |
奥野文部大臣、学校週5日制についての検討を指示する |
1974 |
昭和49 |
1月 |
川原崎茂にかわり、今瀬米造が校長となる |
1975 |
昭和50 |
4月 |
ベトナム戦争終結、アメリカ軍撤退する |
1978 |
昭和53 |
10月 |
文化祭を廃止し、第1回演劇コンクールを開く |
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