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河南高等学校90年史 年表(その2)
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西暦 |
年号 |
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本校の教育に関すること、国内外のおもなできごと |
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7月 |
日中戦争に突入する |
1938 |
昭和13 |
7月 |
日本訪問中のヒトラーユーゲントがオープンカーを連ねて富田林を訪問、富田林中学校1年生が富田林駅前で出迎える |
1939 |
昭和14 |
5月 |
現在の本校所在地への移転が認可される |
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9月 |
文部省、中等学校の入学試験での筆記試験をやめ、口頭試問・内申書審査・身体検査とすることを通達する |
1940 |
昭和15 |
4月 |
定員1,000名となる |
1941 |
昭和16 |
4月 |
25学級、定員1,250名となる |
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5月 |
新校舎第1期建築工事起工 |
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10月 |
同工事竣工、建築費21万1,405円。第2期建築工事起工 |
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12月 |
太平洋戦争はじまる |
1942 |
昭和17 |
4月 |
実宝達治郎にかわり、四方哲太郎が校長となる |
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アメリカ軍機16機が日本を初空聾する |
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7月 |
文部省、高等女学校の英語を随意科目とする |
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12月 |
新校舎第2期建築工事竣工、建築費16万8,250円 |
1943 |
昭和18 |
4月 |
文部省、教科書の国定化と中等学校の修業年限の1年短縮を実施する |
1944 |
昭和19 |
4月 |
新校舎へ移転、本校の現在地での授業開始 |
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8月 |
学童疎開はじまる。女子挺身勤労令・学徒勤労令が公布される |
1945 |
昭和20 |
3月 |
大阪大空襲、このため府下各校の入学試験は中止となる |
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4月 |
入学志願者全員の入学を認める。このころ疎開による転入生も多く、生徒数がさらに増加。運動場での農作物づくりや防空壕構築などのため、授業はほとんどおこなわれず |
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8月 |
政府、ポツダム宣言を受諾する |
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10月 |
連合国軍最高司令部(以下、GHQと記す)、教育から軍国主義色や国家主義色を除くことを指令 |
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12月 |
GHQ、教育勅語・御真影の回収や修身・国史・地理の授業停止などを命ずる |
1946 |
昭和21 |
1月 |
天皇の人間宣言がだされる |
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2月 |
旧校地内の奉安殿・楠公霊殿をとりこわす |
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3月 |
アメリカ教育使節団が来日する |
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4月 |
旧制最後の生徒が入学(1949年に併設中学2期生として新制で卒業) |
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5月 |
文部省、教職員の適格審査委昌会の設置を全府県に命ずる |
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10月 |
新校舎第3期建築工事竣工 |
1947 |
昭和22 |
4月 |
学校教育法による六・≡制を実施。新制中学校の発足にともない、旧制の2・3年生を、それぞれ本校内に設置された併設中学校の2・3年生とする。本校、教員適格者名簿を提出する |
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5月 |
日本国憲法が施行される |
1948 |
昭和23 |
3月 |
併設中学校1期生卒業(1945年の入学から2年生修了までは旧制) |
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富田林高等女学校第34回卒業式(入学は1943年) |
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4月 |
学制改革により本校も新制高校となる。生徒数1,288名 |
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男女共学実施にむけ富田林高校との生徒・教職員の交流作業に着手 |
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23日、抽選によって異動する生徒・教職員を決定する |
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5月 |
1日両校で開校式を実施、この日が創立記念日となる |
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サマータイムを実施する。GHQ大阪軍政部の指示を受け大阪府教育部長、本校に対して校舎・校地のすべてを新制町立富田林中学校に貸与することを命ず。本校は富田林高校内に移転し校舎・校地を共用する |
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10月 |
四方哲太郎が離任、富田林高校長篠原文郎が本校校長を兼務。河南高校としては第1回の体育崇を開催する |
1949 |
昭和24 |
1月 |
本校、新制高校としての第1国文化崇を開催する |
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3月 |
前年卒業の旧制第34回卒業生のうち、新制高校に1年間在学した生徒が、河南高等学校第1回卒業生として卒業する |
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富田林高等女学校第35回卒業式(1944年に入学、旧制最後の卒業生となる) |
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4月 |
普通課程のほかに家庭課程、商業課程、工業課程を設け、本校は総合制高等学校となる |
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5月 |
GHQ大阪軍政部の強い指示を受け、富田林高校と共に本校も学校5日制を実施 |
1950 |
昭和25 |
3月 |
新制高校としてはじめての入学試験を実施する |
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