90years |
|
|
|
|
河南高等学校90年史 年表
|
西暦 |
年号 |
|
本校の教育に関すること、国内外のおもなできごと |
|
1901 |
明治34 |
2月 |
南河内部会において高等女学校群設の建議が行われる |
1902 |
明治35 |
2月 |
南河内郡会(以下、群会と表記)において高等女学校群設の件、時期尚早の理由で延期となる |
1906 |
明治39 |
4月 |
富田林高等小学校付設裁縫学校が開設する。入学生徒50名。三根隆澄、主事となる。 |
|
|
10月 |
女学校設営の件、群会で無期延期となる |
1908 |
明治41 |
|
内田愛蔵、校長となる。群営無期延期の影響で入学志願者が激減し、裁縫学校は廃校同様の悲運に際会する |
1909 |
明治42 |
3月 |
裁縫学校、第1回卒業生22名 |
1910 |
明治43 |
7月 |
裁縫学校の組織を変更し、富田林町六ヶ村学校組合立南河内郡富田林女史技芸学校が開校する |
|
|
11月 |
郡長の校長兼務をやめ、杉本美之助が専任の校長に任命される |
1912 |
明治45 |
3月 |
女子技芸学校廃校 |
|
|
4月 |
南河内郡立実科高等女学校が開校する。校長杉本美之助。学級数6、生徒数226名 |
1914 |
大正3 |
3月 |
実科高等女学校第1回卒業生76名(本科53、選科23名) |
1915 |
大正4 |
11月 |
実科高等女学校同窓会として橘会が発足する |
1916 |
大正5 |
2月 |
2年間の継続事業として、現在の富田林市立第一中学校の所在地に新校舎建築と旧校舎の一部移築することを群会が決議 |
|
|
5月 |
杉本美之助、愛知県第二師範学校に転任する。榛沢常人、校長事務取扱となる |
|
|
7月 |
新校舎第1期建築工事起工 |
|
|
12月 |
新校舎での授業開始。第1期工事竣工。今の近鉄富田林西口駅の前身である学校前駅が開業する(昭和8年、現在の駅名に改称) |
1917 |
大正6 |
3月 |
思想家の井上圏了、世界風俗に関する講話を本校生におこなう |
|
|
8月 |
新校舎第2期建築工事越工 |
|
|
11月 |
本校に電話が架設される |
|
|
12月 |
第2期工事竣工 |
1918 |
大正7 |
4月 |
組織を変更し、大阪府南河内郡立河南高等女学校と改称する |
|
|
7月 |
榛澤常人にかわり、井上−が校長となる |
|
|
11月 |
第一回運動会 |
1919 |
大正8 |
3月 |
本科第1回および実科第6回卒業式 |
|
|
4月 |
前年7月から休職中の教諭内田愛蔵、中河内郡龍華尋常高等小学校長となる |
|
|
6月 |
本校内に大阪府河南臨時教員養成所を設置する |
|
|
8月 |
同養成所修了式。講堂・表門の建築工事竣工 |
|
|
9月 |
校舎新築落成式がおこなわれる。新築記念誌を刊行する |
1920 |
大正9 |
4月 |
実科の廃止が認可される |
1921 |
大正10 |
4月 |
府立に移管、大阪府立河南高等女学校と改称する |
1922 |
大正11 |
4月 |
定員が本科600名、補習科50名となる |
1924 |
大正13 |
5月 |
井上一、市岡高等女学校長に転任する。久保田勝弥、校長となる |
1926 |
大正15 |
9月 |
生徒用自転車置き場21坪を新築する |
1928 |
昭和3 |
3月 |
久保田勝弥、干葉県立商業学校長に転任する |
|
|
4月 |
岡村英敏、校長となる。大阪府立富田林高等女学校と改称する。補習科を廃止する。5学年15学級、定員750名となる |
1931 |
昭和6 |
3月 |
岡村英敏、岸和田高等女学校長に転任する |
|
|
4月 |
実宝達治郎、校長となる |
|
|
9月 |
楽器練習室、新築落成する |
1934 |
昭和9 |
9月 |
室戸台風、阪神を直撃。大阪府では死者2,866名、負傷者1万5,361名、建物被害47万5,634戸にのぼる。本校では化学教室の天井が落ち、家事割烹室が傾斜するなどの被害が出る |
1935 |
昭和10 |
11月 |
陸軍第4師団、秋季演習をおこない本校に統監部を置く。東久邇宮師団長ら約120名の夕食の調理配膳に本校生徒が動員される |
1936 |
昭和11 |
2月 |
二・二六事件おこる。軍部の政治支配が決定的となる |
1937 |
昭和12 |
3月 |
この年から大阪府下の中学校・高等女学校の入学試験では、筆記試験が国史1科目のみとなり、ほかに口頭試問などがおこなわれる。前年までの筆記試験科目は、読み方・算術・理科・国史・地理の5科目であった |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|